パソコンに相手してもらっていてもパソコンと喋ることはないので、子どもたちが学校に行っている時間は無言だったりします。すこし不健康かもしれないと思い、昔憶えた歌など口ずさんだりします。急に冷気がすべりこんできたせいか、10歳の頃に流行った五輪真弓の『恋人よ』を想い出しました。

 久々にYou Tubeで聴いたら驚きました。前奏の美しさもさることながら、五輪真弓という人の存在感、演じ方に。圧倒されました。才能なのでしょうね。子ども心にも、すごい人だ、美しい曲だと思ったのでしょう。恋とか恋人なんて言葉がリアルじゃなかった幼い胸にも響いたのですね。その後、カラオケではよく歌いました。もう何年もしていないので、最後にこの歌をマイクで歌ったのは20代かな。

 私が子どもの頃は、歌謡曲が全盛。昭和の歌からは、若かった両親や小さい妹と暮らした時代が呼び起こされ、<幸福>というものがあるのだとしたら間違いなくこの記憶にあると、その賑やかな想い出にすがって子どもみたいに泣きじゃくりたいような気持ちにさせられるのです。

恋人よ恋人よ
(1990/09/15)
五輪真弓

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2009.11.03 Tue l 暮らし l COM(1) TB(0) l top ▲
 毎日「看護師」って打っているから、久しぶりな感じもしませんけれど。こちらには書いていませんね。

 看護師は、経験というものをとても大切にする人たちだと思います。私も、看護師経験が数十年という大先輩に出会ったりすると、それを聞いただけで、ただもうリスペクトです。反射的にそうなるわけです。

 どうしてそうなるのでしょうか。それは、経験というものが看護師としてのその人の腕をなんだか示してしまうような気がするから。そして、こんなにしんどい仕事を長く続けていることに驚かされ、励まされ、感動するから。というあたりが答えになるでしょうか。

 でも、実は私は、そのような「経験」というものが、その看護師の腕を本当に示しているかどうかについて、少し疑っています。というのは、仕事を長く続けているというところでは素直に尊敬してしまうのですが、その人がすてきな看護師かどうかということは、別の次元の話ではないかと思ってしまうのです。だって、いるでしょう?中年の看護師にも、ベテランには見えるけど、不機嫌で感じの悪い人って。そのような看護師のことを、経験があるからという理由でリスペクトはできないわけです。その場合の経験は、ただ年数を経てきただけ、というだけ。うすっぺらな経験だわ、と思ってしまうのです。

 私は、新人看護師でも、いや看護学生でも、目を見張るような看護をする人がいると思うのです。たとえ多少技術がいまひとつでも、言葉をうまく使いこなせなくても、人に伝わる看護をしている人はいると思うのです。それは性別も無関係。男性看護師はごつくて嫌という人もいますが、それは見た目の印象でしかなくて、少なくとも私にとってはどうでもよいことです。別に女の人のやわらかさなんかなくてもいい。私の心の痛みに気づいてくれればいい。その人の心が、魂が、気づいてくれれば。それだけでいいと思ってしまいます。それだけで、どれだけ救われるか。

 それだけ、のことが難しいことでもありますけれどね。私は、病んだときは、そういうすてきな看護師に出会いたい。経験は豊穣だけをもたらすのではないということは言えると思うのです。経験を重ねることによって、無意識のうちに人からあるものを奪い、また失うこともあるのだということ。そこを自覚していくことも、大切なように思うのですが。いかがでしょうか。ひとつの領域で積み上げた経験がない私の、愚かな繰り言でしょうか・・・・・。

2009.11.01 Sun l 暮らし l COM(0) TB(0) l top ▲
机の壁にかけてあるカレンダー。

今年も残すところ、あと二ヶ月ですね。

今年最後のカレンダー
2009.11.01 Sun l 暮らし l COM(0) TB(0) l top ▲
大学院の先生から、ゼミ生にメールがありました。秋学期のゼミは論文の中間報告だけになっていたのだけれど、11月からまたフーコーを読み始めるとのこと。外部から聴講生がきているせいでしょう。

博士論文や修士論文を書くゼミ生の参加は、基本的に免除になっています。論文に集中するようにという配慮ゆえ。もちろん論文が進んでいれば参加すればいいのですが。

でも、とても無理。どう転んでも、年内の参加は無理。それがとても悲しい。最後のゼミだったから。私は博士課程に進むわけではないので、大学院でのゼミは本当にこれが最後なのです。休講ならあきらめもつくのですが、隣でゼミをやっているのに出られないなんて、なんとも酷だわ。

仕事もそうですが、インフルエンザや風邪が流行するこれからの時期は、なにごとも前倒しで進めておく必要があるのです。自分が倒れた場合と子どもたちが休む場合と合算して2週間は消えることを見積もっておくようします。実際は、2週間も仕事を前倒しするなんて無理なのだけれど、そのくらいの勢いで進めておかないとリスクが大きくなるのですね。

そう考えると、年明けの論文提出に向けて、クリスマスの頃には仕上がっている勢いで書いていかなければなりません。フーコーを読むということは、予習も必要だし、レジュメ担当もしないでただ出席するということは性格上できないので、出るからにはレジュメをつくり、報告担当にならないと。その時間がないんですよね。絶対に。

でも、これからもフーコーは読んでいきたいと思っています。『臨床医学の誕生』も積読になっています。読みたい読みたいと思いながら。たぶん論文にもかかわると思いながら。でも、私にはフーコーを自力で読む力が足りません。まだまだ修行が足りないのです。かといって、次年度以降、先生のゼミにきちんと参加できる時間はないと思われるし。ゼミが開講するかどうかもわかりません。まあ、うだうだ言わず、ここは諦めるしかないか。

うちの小学校の学級閉鎖もじりじりと続いています。なんてしぶといウイルスなのでしょうか。夏も冬もなく流行していくのでしょうか。覚悟して、とにかく毎日がんばって論文を書き進めるのみですね。

ミシェル・フーコー講義集成〈8〉生政治の誕生 (コレージュ・ド・フランス講義1978-79)ミシェル・フーコー講義集成〈8〉生政治の誕生 (コレージュ・ド・フランス講義1978-79)
(2008/08)
ミシェル フーコー

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臨床医学の誕生臨床医学の誕生
(2000)
ミシェル・フーコー神谷 美恵子

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2009.10.31 Sat l 勉強 l COM(0) TB(0) l top ▲
 陽射しがまだまだ強いですね。とはいっても、もう10月末になりました。秋も本番です。大学のキャンパスに立派な銀杏の木がありますが、うっすらと緑色が抜けてきました。黄金になるのが楽しみです。

 大学の図書館では、研究者用の個室を借りることができます。院生と教員が使えることになっています。満室のことが多いのですが、今日はうまく空いたタイミングに借りることができました。個室は快適です。窓から遠くに東京タワーが見えるのです。美しい時間にそこにいました。しだいに陽が落ちて暮れなずみ、都会の夜景が際立つ時間になったころ、席をたってきました。もう少しその光景に浸っていたいような気分でした。

 論文はようやく第一章を書き終え、全体を読み通したら、唖然とするようなしろものでした・・・・・・まとまりもないし、文章も落ち着きがないし、いやはや。文字数も、たった1章だけなのに26000字を超えています。ちょっと書きすぎたと反省。インタビュー調査が核なので、そこを書くのはもっと字数が必要になるでしょう。ということは、書く時間もかかるということ。手広くしたところでまとまらないだけになりそうだし、実はもともと、まとまりのない論文になりそうなテーマだから仕方がないか、と思ったり。落としどころを意識しながら書かなければと反省です。書きたいことがたくさんありすぎる。関心事項の周辺の文献を探してピックアップして、考えなおして、書き直して、などとやっていると本当に時間がなくなっていくものですね。

 書くことを仕事としている人たちがこんなことを日々しているのかと思ったら、気が遠くなりそうな気持ちになりました。でも、書くという才がある人には、やはり書いて欲しい。書いて書いて、書きまくって欲しいと思ってしまう私。勝手なものですね。

 

 

2009.10.30 Fri l 勉強 l COM(0) TB(0) l top ▲